鮨喰いねエ!江戸後期の超人気鮨店 3選
江戸後期の文政の頃には、握り鮨が大流行しました。中でも「江戸の三鮨」と言われる
「與兵衛寿司」、「松が鮨」、「毛抜鮓」の三店は連日大行列の人気店だったそうです。
さて、どんなお店だったのでしょうか。
握り鮨の創案者「與兵衛寿司」
「與兵衛寿司」は、文政七年(1824)に、華屋與兵衛(小泉與兵衛)が両国の回向院近くに店を構え、「與兵衛ずし」という屋号で商売を始めました。
ワサビを鮨に初めて使ったので、「握り鮨の創案者」としても有名です。当時の狂歌には、「こみあいて、待ちくたびれる與兵衛鮓 客もろ手を握りたれけり」とあるように、大いに繁盛して、武家からの注文もある店だったそうです。
四代目主人の縁者が、明治十年頃の実際に「與兵衛ずし」で売られていた鮨を20種類のメニューの中から15種類をピックアップして、日本画家の「川端玉章」に写生させたという「絵」が残っています。
左上から下に向かって、小鯛、みる貝、きす、イカの印籠巻き、(2列目)白魚、鱒、小肌、鰺、海苔細巻、赤貝、(3列目)鮎の姿鮨、厚焼玉子の太巻、海苔の太巻、車海老、鯖の押し寿司の15種類ですが、当然「穴子」や「まぐろの漬」もあったでしょう。
「與兵衛ずし」は関東大震災後の昭和5年迄続いたという事です。
ちなみに今日の和風レストランチェーン・華屋与兵衛とはまったく関係ありません。
当時最も贅沢な鮨屋「松が鮨」
「松が鮨」は、「安宅松が鮨」、「松の鮨」ともいわれ、文政13年(1830)に堺屋松五郎が深川安宅六間堀(新大橋近くの江東区森下)に開店し、地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれました。玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われるようになります。「松ヶ鮓 一分ぺろりと 猫がくひ」とも川柳に謳われましたが、天保の改革の「奢侈令」で贅沢が禁止され、華屋與兵衛と共に、過料五貫文を課されたそうです。
歌川国芳の錦絵にも残っているように、ここも相当な繁盛店だったようです。
歌川国芳 「縞揃女弁慶・松の鮨」
そのあまりの贅沢ぶりから天保の改革で水野忠邦の発した倹約令に触れて、与兵衛寿司とともに処罰を受けている。
江戸時代後期の国学者で考証学者でもある喜多村筠庭が、諸書から江戸の社会風俗全般の記事を集めて類別した文政13年刊の随筆集『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)には、握り寿司の考案者は華屋与兵衛ではなく堺屋松五郎だとしています。
「松の鮨」は明治の末期まで続いたそうです。
現存する唯一の江戸三鮨「毛抜鮓」
「毛抜鮓」は創業が最も古く、元禄15年(1702)に松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし) 今の「人形町二丁目」で創業しました。
ここは、握りずしと違って、「押し鮓」「なれ鮓」の潮流の形態が強く、笹で巻いた押し寿司の一種で、調理にも時間が掛かるので高級品とされ、当時は大名の江戸藩邸や旗本諸侯からの接待品あるいは贈答品としての注文が主であったと伝えられています。ですから、他の二店とは扱っている鮨の種類が違っていました。
笹の葉で巻いた押し鮓の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴。寿司だねもまず塩漬けで1日、次に酸味の強い酢(一番酢)で1日、そして酸味の弱い酢(二番酢)で3日から4日も漬けるそうです。これをひとくち大に切ったものを酢飯の上に乗せ、殺菌作用のある笹で圧しながら巻いて空気を抜くことで、さらに保存性を高めています。
このように毛抜鮓は調理するのに大変な手間と時間がかかる高級品だったため、当時は大名の藩邸や大身旗本の屋敷などからの進物品としての注文が主でした。後代になって調理がより簡略化された握り寿司が現れると、従前との対比でそれは「早ずし」と呼ばれて庶民から有りがたれるほどでした。
「毛抜鮓」は今も唯一営業している店で、十二代目が「笹巻きけぬきすし総本店」として、千代田区神田小川町で営業が続いています。日舞などの発表会の引出物としても使われています。
「江戸の三鮨」と称されたそれぞれの店ですが、「すし文化の発展」には貢献度が物凄くあると思います。寿司は早くて美味しい「江戸の食文化」の代表格である事は間違いありません。これらの先人たちによって、世界的な「メニュー」になってきています。