ミャンマー難民がカリフォルニアでスシ長者に!|巻きずし1本でアメリカンドリームをかなえた移民たち(後編)
ミャンマーから難民として逃れてきた青年がカリフォルニアで鮨ビジネスを成功させるまでを追ったインタビュー。
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銀行から融資を拒まれたマウンは、友人や親戚から10万ドルを借り、クレジットカードを限度額ぎりぎりまで使った。節約のために車の中で寝泊まりしながら、スーパーの店内でデリのサラダやカップケーキと並べて新鮮な寿司を販売するというアイディアを、小売業者に売り込んでまわった。
説得は難しかった。
「寿司だって? 冗談はよしてくれよ」「米国人はピザやフライドチキンが好きなんだ」そんな反応ばかりだった。それでも徐々に個人経営のスーパーを説得して、2001年には、中西部と南部の州で15店舗の寿司バーを営業し、売上高は2500万ドルに達した。米国に定住するミャンマー難民が増えるにつれてヒッショーのビジネスも成長した。ミャンマーからの定住者の数は、2002年には113人だったが、2004年には約1300人に。わずか2年で10倍以上に急増した。彼らは国軍と自決権を求める辺境民族との何十年にもわたる血なまぐさい衝突を逃れてきた人々だ。2007年には、マレーシアやタイに避難していた難民に米国での定住が認められた結果、移民の数は1万4225人に膨れ上がった。
ヒッショーは事業の拡大とともに大勢の新しい移民を受け入れた。そして、従業員が専門技能を身につけると店舗を譲り、会社とスーパーが売上高の一部を受け取る仕組みにした。
2週間の必須講習の内容は
今日、ヒッショーは全米41州の1100ヵ所以上に店舗を構えている。スーパーマーケットの全国チェーン店や大学のフードコートなども含まれており、2017年の売上高は1億4000万ドルを超えると見込んでいる。同社のフランチャイズ店の経営者の約95%は、南カリフォルニアのアウンのようなミャンマー人だ。店舗を引き継ぐには、創業資金として1万ドルを出資し、ヒッショー本社で2週間の講習を修了しなければならない。
講習会を取材すると、講師がビルマ語混じりの英語で「いかにして料理人の立場と経営者の立場を折り合わせるべきか」というディスカッションをさせていた。その場にいたのは、コロラド、メリーランド、テキサスなどの州でフランチャイズ店の経営を目指している生徒たち10人。そのうち何人かは、アウンのように米国へやってくるまで一度も寿司というものを見たことのない人たちだった。
「ほとんどの生徒は寿司飯を初めて手で握るときにはおっかなびっくりですよ」そう語る講師は、海苔の上に「苗を植えつける」みたいに米粒をやさしく扱いなさいとアドバイスしている。初心者はふんだんに具を入れすぎる傾向があるが、そんなときは「寿司を作っているのですよ。ピザやブリトーじゃありません」と注意する。
アウンはミャンマーを出てから、マレーシアで5年間、衣類の行商をしながら細々と生計を立てていた。米ワシントン州ケントに到着したのは2014年の2月。それから1週間もしないうちに、ヒッショーのフランチャイズ店を経営していた従兄弟から寿司作りを教わっていた。1年後、ヒッショーは、カリフォルニア州カールズバッドにあるファーマーズ・マーケット内の寿司店でアウンを採用。時給11ドルだった。アウンは徐々にフランチャイズ店の経営を任されるようになり、売り上げを急増させて社の信頼を得ていくようになった。アウンは知り合いのミャンマー人たちをカリフォルニアに呼び寄せると、サケやマグロを適切な角度で正確に薄切りにし、アボカドやキュウリなどの具を巻き込んできれいな円形の巻き寿司を作れるように指導した。アウンの愛弟子たちは全員がフランチャイズ店の店主となっている。
「お客さんの多くは、自分たちが買っている寿司を日本人の料理人が作っているものと思っています」と、アウンは言う。だが、尋ねられればいつでも本当のことを教えていると付け加えた。アウンは現在、3店舗からの売り上げで、毎月1万7000ドルの純益を上げている。取材の数ヵ月前に、アウンの高校時代からの恋人が米国に到着していた。彼女はすぐに彼の店で働きはじめ、2人はまもなく結婚する予定だ。
目下、アウンの唯一の悩みは、次から次へと弟子入りしてくる新人たちのトレーニングで忙しすぎること。いわく「ミャンマー人は寿司を知ったら、自分の店を持ちたがりますから」。