「すしざんまい」名物社長が明かす、築地人情秘話 10坪の小さな寿司店から始まった奇跡
築地市場が2018年10月10日に閉場した。1923年関東大震災後に始まった市場は、庶民に親しまれ、場内・場外問わず文字通り助け合いと人情の街だった。「すしざんまい」の木村清社長もまた、“築地の情け”に助けられた一人だったという。そっと明かされた感動のエピソードを、自叙伝『マグロ大王 木村清』(2016年刊)から公開する。
バブル崩壊、メインバンクの裏切り
今から20年ほど前、日本のバブル経済が弾けた後のことです。私はメインバンクに裏切られました。
当時、築地で手広く商売を手掛けていた私は、銀行から総額百数十億円を借りていました。しかし、バブルが弾けたため銀行側が「返してくれ」と言ってきたので、残り4500万円くらいになるまで返済していました。その頃すでに中国で漬物をつくる事業を行っていた私は、大根の作付けで金がかかるので別の銀行に貸してもらおうとお願いに行きました。すると、その銀行の人に言われたのです。
「木村さんにはお貸しできません」
私は驚きました。「そんなバカな!?」と思って詳しく聞いてみると、私は元金も金利も払っていないとして、リストに載っている。しかも、整理回収機構行きだというのです。
よくよく調べてもらって、ようやくひどい真相が判明しました。北海道拓殖銀行(当時)が、四千数百万円と新たな借入金の一括返済を求めてきていたのです。私は、そんな求めがあったことさえ知りませんでした。
我が社はそれまで、一度として返済を滞らせたことがありません。自分で言うのもなんですが、まさに優良貸出先だったはずです。北海道拓殖銀行とはもろもろありまして、新たに手形の貸し付けという形で金を借りていました。これは年に一回、書き換えをすればあとは借りっ放しでもよい約束のものでした。
ところが銀行は突如、女房を偽って一括返済の書類にサインさせたのです。そのやり口もまた、とんでもないものでした。私が海外にいる時に、女房から電話がありました。「銀行さんが来て、手形の書き換えで判子を押して欲しいと頼まれている」と言うのです。私は、手形の書き換えだったら問題ないと思い、家内に「いいよ」と伝えたのです。
実はその時の書類に、「一括返済」という文言が入っていたのです。何センチもある分厚い書類の束の中に、ほんの小さな字で。
私はたちまち、人生最大のピンチを迎えてしまいました。
「どん底」からの再出発
これまでいったい、なんのために働いてきたのか――。長い付き合いのあった銀行の仕打ちに、怒りよりも虚しさを感じました。
涙を流す女房を見て、申し訳ないと思うと同時に、事業を継続する気持ちが失せていきました。苦楽を共にしてきた女房あっての人生です。その女房を泣かせてまで続けるものではない、そう思ったのです。
そこで会社の整理を始めました。独立を志望する者には独立させてやりました。パートナーや友人に集まってもらい、事業をそれぞれ引き取ってもらいました。
そんなある日。私は築地の仲間に誘われてゴルフをしました。みんなで楽しくラウンドしていたところ、家内が電話をかけてきました。「うちの口座に、知らない人からバンバンお金が振り込まれてくるんだけど、どうしたの?」。私の口座にお金を振り込んでくる人など、まったく思いつきません。
ところが、私がなにも知らなかっただけでした。まさにその時、いっしょにゴルフをしていた仲間たちが、みんなで申し合わせて振り込んでくれていたのです。「木村さん、使ってよ」「マグロの夢があるんだろう。その夢のために使いなよ」──額にして数百万円もの大金です。
借用書もなにもなく、なにも求めずに、ただ黙ってお金だけを振り込んでくれる友人がいる! 私はすっかり感激してしまいました。
今の自分に、仲間のためになにができるのだろう。どうやってこのお礼の気持ちを伝えたらいいのだろうか……。そうだ、やはり、マグロを獲ってみんなにお返しをしよう、そう決心しました。
彼らから預かったお金でアイルランドに向かい、マグロと格闘しました。結局、2本しか釣れませんでしたが、応援してくれた方々に振る舞いました。そんな経緯もありまして、みんなから振り込まれたお金は、その後いつしか「マグロファンド」と呼ばれるようになりました。
私は、二人三脚で支えてきてくれた女房への感謝の気持ちもあり、しばらくは女房といっしょにゆっくり過ごそうと思っていました。ところが、私の周囲にこんな素晴らしい仲間がいる。そのことを知った女房のほうから、「そんなにいい仲間がいるんだったら、事業を続けてよ、お父さん」と、言ってくれたのです。
「じゃあ、もう一度やってみるか!」
その時、手元に残ったのは300万円。私はそのうちの200万円で一軒の寿司屋をつくったのです。これこそが、2001年にスタートさせた「すしざんまい」の原点となる「喜よ寿司」です。1997年のことでした。
人情が生んだ10坪の「喜よ寿司」
この、わずか10坪の小さな店は、回転寿司よりも高品質、一般の寿司屋よりも低価格で明朗会計。「いいネタを、どこよりも良心的な価格でお客様に提供する」というコンセプトにしました。
といっても、たいした店ではありません。お金がありませんでしたから、カウンターをつくれなかったのです。厨房とテーブル席が18席ほどあるだけで、ネタケースを置くこともできませんでした。メニューも多くはありません。というより、多くできなかったのです。丼ものがメインで、あとはマグロの握りなど15~20品くらいでした。
でも、それまで培ってきた人脈やノウハウを駆使して、がむしゃらに働きました。新鮮なネタを仕入れることができましたから、それを明朗会計で提供する。2人いた職人には、お客様への感謝の気持ちを込めて提供するように指導しました。
私にしてみれば「当然のこと」をしただけのつもりでしたが、その“当たり前”が受けたのでしょう。たちまちのうちに行列ができる人気店になったのです。午前11時から午後9時くらいまで職人2人で握って、1日に58万~60万円ほどの売り上げになりました。
じっくり見極め、決めたら一気呵成
「喜よ寿司」の成功を経て2001年に開店した「すしざんまい」。多くのお客様に訪れていただき、世界各国からの旅行者の方もたくさん利用してくださるようになりました。「すしざんまい」を成功させる自信はありましたが、20年前に10坪の小さなお店を始めた時には考えられないことでした。
お客様が増えるにつれ、徐々に「入りたくてもなかなか入れない」という事態を招くようになりました。そこで、同年12月に別館をつくり、その後、築地に少しずつその輪を広げていきました。
バブル経済崩壊後、閑古鳥が鳴いていた「築地を元気にする」という目的で開店したのです。支店をつくるにしても、まずは創業の地を固めないといけない、と思ったからです。
そのうち競合店も増え始め、やがて築地は観光客でごった返すようになりました。築地に人が戻ってきたことは感無量でした。しまいには、周囲から「木村さん、もうこれ以上、人は要らないよ」という声が聞こえてくる始末。
そこで、よその地に目を向ける必要が出てきました。また、築地に食べに来てくださったお客様が、「こんないい店はない。うちの近くにも出店してよ」と言ってくださるようになった、ということもありました。まずは門前仲町に、続いて亀戸、錦糸町に出店。それから銀座、六本木、渋谷と都内の繁華街に出店をしたうえで、地方にも店を出すようになりました。
常に満席、並んででも入りたい店
ところで、私のことを「慎重な経営者」だと評する方がいるようです。たしかに出店のペースはけっして早くありません。そもそも私は、「年間に何店舗出す」といった目標もまったく立てませんから、そういう見方もあるかもしれません。
ハイペースで出店しない理由は、2つあります。
まず、きちんとした人材が揃わない限り出したくないからです。質を落としてまで出店するのは、「すしざんまい」に期待をしてくださるお客様に失礼だと考えているのです。もうひとつは、我が社は無借金経営を旨としているからです。正確には、銀行からいわゆる“お付き合い”で借りているお金はあります。でもそれは、万一の時に備えてのこと。正味は無借金経営です。
「この店なら成功する」という見極めがなにより大事だと考えていますが、しかし、いったん「行ける」と判断したならば、出店までは一気呵成。あっという間に開店にまで持っていきます。つくる店は、常時満席になることを目指しています。50席の店なら、1日に何回転するかを考えます。
アメリカの“科学的”経営方式を学んだ人の中には、「席数の7割入ればいい」と主張する方もいます。でも、私の考えはまったく違います。あくまで常に満席で、行列ができる店を目指すべきです。そのうえで、待っていただいているお客様にいかに早く、かつおいしい寿司を食べていただくかを考えます。
お客様に、その貴重な時間を割いて並んでいただけるというのは、よほどのことです。それだけ期待してくださっているお客様に十分な見返りをご提供できる店。それが私の店の本分です。
築地市場は移転しましたが、築地場外市場は変わらず皆様をお待ちしております。この人情の街にどうぞお越しください。お待ちしております。