SUSHI TIMES

29歳で店主に。目標へとひた走る、女性鮨職人の7年<前編>

畠中亜弥子(はたなか あやこ)さんは、会った瞬間から相手をくつろがせるような、朗らかな笑顔が印象的な女性だ。「おもてなし」という言葉が似合う人、というのが彼女を見た第一印象だった。29歳の彼女だが、親しい友人に「おふくろさん」と呼ばれるのも納得できる。

畠中さんは歴7年の和食の料理人で、2019年4月金沢駅前にオープンする「おすしと和食 はた中」の店主となる。

同店のクラウドファンディングサイトは公開2日で目標金額を達成。3週間経過した現在の支援金額は目標額の300%に迫る勢いだ。店への注目と彼女への期待の大きさが伺える。そんな畠中さん、どんな人物なのだろうか。

老舗旅館に生まれ、美食に触れて育つ

畠中さんの実家は奈良県吉野郡天川村の、4代140年続く旅館「弥仙館」を経営している。両親と祖父母の家族経営で、山菜や川魚、猪肉や鹿肉を出す。遠方からのリピーターも多い、人気の旅館だ。小さい頃から旅館のお手伝いをしていた畠中さん。お茶や白飯を出した時のお客さんの「うまい!」という反応を見るのが楽しみだった。シンプルなお茶や白飯が驚くほど美味しいというのは、水が美味しい天川村ならではだろう、と畠中さんは語る。

1日5組限定。家族でお客さんを捌けるギリギリの人数だ。日本三大弁財天の一つである「天河大弁財天社」近くで、スピリチュアルスポットとしても知られ、交通不便な場所ではあるが海外からの旅行客も後を断たない。幼い頃から宿を手伝う中で、畠中さんは人と接し料理を作ることが好きになり、自分もいつかこの宿を継ぎたいと考えるようになった。

高校卒業後はすぐに料理の道に進むことも考えたが、両親の勧めで大学に進学。美大で彫刻や木版画を学んだ。

進路を考える時期になり、畠中さんは生まれ育った天川村の村興しをしたいと考えるようになった。美大でデザインを学んで来た自分だからこそ、この田舎の村に貢献できる事があると思った。観光客はそこそこ来る天川村だが、お洒落なお土産を全く見かけない。万年店先に並んでいる「ダサい」おかきのパッケージも、自分でデザインしてもっと売れるように変えてみたいと考えるようになった。

ここまでの話を聞くと畠中さんは芸術肌、もしくは職人気質の人に感じるかもしれない。が、実はマインドは生粋の商人だ。中学生の頃、家の旅館で大規模なリフォームを行った。多額の借金をしての挑戦だった。失敗したら一家が路頭に迷ってしまう。どう改装し、新たな顧客を呼び込むか、毎日のように家族会議が開かれた。結果、数年で宿泊客は増え、リフォームは吉と出たが、畠中さんは思春期にしてすでに経営の厳しさを体感したのである。それ以来、商売でどう利益を出すか、頭をフル回転させて考えるビジネス思考の癖がついた。

大学卒業後はすぐに京都の料亭で働いた。ここで和食の基礎を叩き込まれた。月の売り上げは1000万を超える繁盛店で、調理場は男性4人と畠中さんの5人だった。お客は多くて4回転もする店で、猛烈に忙しかった。繁盛店だけにのんびり仕事ができる瞬間はない。毎日罵声が飛び交う中で必死に働いた。女性だからといって特別扱いされることは一切なかった。労働時間が18時間に及ぶことも珍しくなく、私語も一切禁止。仕事の会話以外は1日のほとんどを黙って過ごす日々だった。

そんな最中、仕事後に立ち寄った居酒屋で板前と話した事をきっかけに、自分もカウンターでお客さんの反応を見ながら働きたいと考えるようになり、居酒屋に転職。人と話す事が大好きな畠中さんは、居酒屋でお客さんとコミュニケーションを取りながら料理を提供することが楽しく、自分に向いていると思った。海外からのお客さんも来る店で、多くの外国人が料理に感動してくれた。。「こんなに美味しいと思ってくれているのだから、もっと詳しく和食の文化を説明をしたい。英語でコミュニケーションをとってみたい。そう考え、いつかは海外で料理人として働こうと決意した。

海外で武器になるのは「SUSHI」

海外で働くためには、と求人を探したときに割烹や和食店の求人は少なかったが鮨屋の求人が多いことに気が付いた。鮨を学んだ方が海外に行けるチャンスが多いと考えて、鮨を学ぼうと決意。この時に鮨学校「東京すしアカデミー」を知り、入学を決意するが、授業料の約70万円を貯める必要があった。

そのため、待遇の良い京都の老舗和菓子店に転職。貯金をする目的と、将来実家の旅館でも甘味を出す事を考え勉強したいと思ったからだった。この和菓子店は水や食材への徹底的なこだわりがあった。あんこは美味しい水でないと美味しくならない。シンプルな素材で作るものだからこそ妥協が許されない。
「やっぱり、水が大事。自分が店をやるなら、水の良いところで、自分が良いと思ったものだけを使いたい」畠中さんの中に新たな決意が芽生えた。

2年後、晴れて貯金もでき、東京すしアカデミーに入学した。2ヶ月で集中的に鮨の基礎を学び、卒業間際に海外求人を探した。日本と同じ食材を使っている料理店であるという条件で探していたところ、マレーシアの鮨屋の求人に出会う。気候が温かく物価の安いマレーシア。自分に合っていそうだと感じこの求人に応募した。するとすぐにビザがおり、トントン拍子で話が進んだ。英語の読み書きには抵抗がなかったが料理の専門用語は勉強して叩き込んだ。この店の料理長と熟練の板前と並び、若い畠中さんが板場に立った。

他の二人に比べると「自分には貫禄や信用が足りない」と感じ必死に勉強をして追いつこうとした。それでも連日畠中さんの目の前に客は座る。待った無しの真剣勝負。ここでは相当、度胸を鍛えられたという。鮨職人になりたての畠中さんが仕事をするには厳しい環境であり、時に叱られ、時に満足のいく鮨を握れず、力不足だと感じる場面も少なくなかった。しかし、中には懸命に働く彼女を応援してくれるお客さんもいた。そのお客さんは、料理長でも板前でもなく、畠中さんの握った鮨を食べに来てくれていた。

店のスタッフと。マレー系、中華系など多様な人種のスタッフと一緒に働いた

余談だが、マレーシアで畠中さんが住んでいたのはバングラデシュ人15人とのシェアハウス。「文化の違いもあるだろうけど面白そうだったので」という。毎晩夜中に大声で歌い出だすシェアメイトにうろたえつつも異文化交流を楽しんだ。彼女の順応力の高さを感じる。

さて、そうこうしているうちに、畠中さんにある日本人から連絡が入る。金沢でゲストハウス4件を経営するグッドネイバーズ代表の吉岡拓也氏だ。吉岡氏は自身のゲストハウスの経営経験を通じ金沢でのインバウンドマーケティングに手応えを感じ、このゲストハウスの近くに鮨店を開きたいと思っていた。

畠中さんは突然の話に驚きつつ「まずは話してみよう」と吉岡氏とビデオ電話で1時間あまり会話した。すぐに「この人とは考えが合う」と直感した。

「吉岡さんには『ゲストハウスに来る、海外のお客さんが来やすいお鮨屋さんをしたい』という目標がありました。『入りやすいお鮨屋さんを作りたい』というのは、共通して私にもある想いでした。また、最初に『何年働ける?』と聞かれました。人を採用するなら長く働ける人が良いと考える会社が多いと思いますが、吉岡さんは『会社のために働くのではなくて、それぞれの人生のために働いて欲しい』という考えでした。私はいずれ自分の店を持つか、家業を継ぐという道を考えていますから、吉岡さんの言葉がありがたかったです」

話は急展開し、畠中さんは帰国した。

店名の第一候補に上がったのは「檸檬(れもん)」という店名。オシャレ感はあるが、「檸檬」に女店主が立つのでは、可愛すぎるのではないか、と却下した。練りに練り、出した案は250案。最終的に決まったのは「はた中」だった。

店名に雇われ店主の畠中さんの名前を冠しているのは不思議だが・・

「私はおそらく、数年でこの店の店主ではなくなります。ですが吉岡さんはその点を納得した上で店名を『はた中』にしようと言ってくれました。私が店主でなくなったらその時に考えよう、という事で。それに、私と板前の2名で外回りの挨拶に行く時、どうしても男性の板前が店主だと思われがちです。この店名なら名刺を出した時に私の名前を見て『あ、こちらが店主さんね』とわかっていただけます。そういう意味でも今の店名でよかったと思います。」

こうして鮨職人・畠中亜弥子の店「おすしと和食 はた中」のオープンが決まった。

後編に続く

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おすしと和食 はた中

JR金沢駅兼六園口(東口)より徒歩3分
営業時間: 17-23時
定休日: 水曜
電話番号: 050-3503-3200
※電話予約受付は10時 – 21時
ホームページ
SUSHI HATANAKA English Website

畠中さんデザインのLINEスタンプ。SUSHITIMES読者には使い道が多そう。

 

文:SUSHITIMES編集部

画像出典:MOTION GALLARY