今更聞けない…江戸前ずしってつまり、何なの?【SUSHI TIMES Originals】
解釈は色々「江戸前ずし」
「江戸前ずし」の解釈は広義・狭義色々あります。
狭い意味では「東京湾の魚介(江戸前)を使用したすし」、あるいは「刺身を塩や酢でしめるといった独特の技法を用いたすし」とすることがあります。広い意味では東京で特に多く見られる「握りずしを中心とした鮨屋で提供される鮨」全般を「江戸前ずし」ということもあります。
江戸前鮨が流行した江戸時代、江戸前の海(現在の東京湾)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた新鮮な魚介類を新鮮なうちに提供することが可能でした。
「江戸前」とは江戸城の前面の海や河川で獲れた水産物を意味します。中でも鰻に対して使われており、大川(現在の隅田川)で獲れた鰻は味がよく、ブランドの意味で鰻そのものを「江戸前」と呼ぶようにもなりました。江戸前という言葉はその後ブランドの意味で、他の魚介類にも使われるようになります。
かつては立ち食いが主流
歌川広重の「東都名所高輪二六夜待遊興之図」「江戸自慢 高輪二六夜」では、浜辺に「寿司」の屋台が出て人々は花火を見て祭のように夜を楽しんでいた様子が描かれています。
北大路魯山人が著書『握り寿司の名人』で「戦後、寿司が立ち食いから椅子にかけて食うようになった」と指摘するように、かつては屋台で立ち食いする料理であったことがわかります。握り鮨が流行していた江戸時代では小腹を満たせば早々に勘定を済まして退店するという「せっかち」だった江戸っ子らの食事スタイルが粋とされていました。
震災がきっかけで全国に広まる
江戸の街で流行した鮨は、関東大震災をきっかけに全国に広まりました。震災で被災し関西に移住した職人により本格的な江戸前にぎりが普及したのです。戦後の「すし委託加工制度」による影響もあいまって、その後関西地方の嗜好も変化するほどであり、江戸前ずしが「すし」として日本国外にも広がっていったのです。
「すし委託加工制度」というのは終戦後の統制時代に敷かれた、わずかな配給米をすしと交換する、委託加工制度です。これが実は日本の鮨の歴史において大変重要なターニングポイントになります。
1939年、太平洋戦争を前に大日本帝国は統制経済として米の配給制度を実施しました。当時、飲食店には特別配給米がありましたが、十分な量でなかったため闇米を買わざるを得ないという状況でした。やがてその闇米も入手困難となり、さらには魚介類まで統制され、休業する飲食店が後を絶ちませんでした。鮨店も例に漏れず休業を余儀なくされます。ところが1947年、鮨店だけが営業を再開することが出来るようになりました。
それが「委託加工制度」です。お客が米一合を持って行き、握り鮨と海苔巻きを作ってもらい、対価として加工賃を払うというもので、タネは統制外の貝類やボラ、雷魚やウグイなどの川魚を使っていました。
あえて「江戸前鮨」をうたわない地方鮨店
現在では全国的に鮨の文化が広まり、中でも関東と関西の鮨は比べられる機会が多くなりました。冒頭でお話ししたように「江戸前の技法を使っていれば江戸前鮨」と解釈される事もあり、東京以外でも「江戸前鮨」をうたう鮨店は少なくなりません。
ただ関西ではハモなど関東では見かけないネタも一般的であるほか、鯛などの西側の方が質が良い食材も豊富にあるため、関東の鮨店の中には「関西のものには勝てないからうちは鯛を使わない」という店もあるほどだそうです。
さらに近年では「西の弥助」を代表とした金沢の鮨も著名ですし、福岡や北海道などの地方の鮨店の勢力も見逃せません。情報化が進んだ現代では職人の技術も流動化しています。また、流通も発達していることから江戸前ずしならではの「酢締め」などの技法が江戸時代ほどには必要とされない傾向にもあるでしょう。あえて「江戸前ではない」事をブランドとする鮨店も多いのが現状と言えるかもしれません。
文:SUSHI TIMES 編集部
出典:
恵比寿 鮨早川
鮨のルーツ⑥〜委託加工制度前編〜