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握り寿司誕生の裏に「お酢の革命」あり!寿司酢に砂糖を入れるワケ【江戸庶民の食の知恵】

現代では、すし(鮨/鮓/寿司)といえば、まずイメージされるのは握り寿司ですが、古くは、魚を塩と米飯で長期間乳酸発酵させた「熟れ鮨」(なれずし、滋賀県の鮒寿司が有名)に始まり、次に「早寿司」といって、押すことにより、1日で食べられるようになる、上方の「押し寿司」というものができました。

そして江戸時代末期の江戸で、発酵や熟成を待たず、ご飯に加え、しかも1貫ずつに握って手っ取り早く食べられるように考えられた「握り寿司」が誕生します。

「発酵させて酸っぱくさせるのだったら、酢飯にすればすぐ食べられるじゃないか」というせっかちな江戸っ子ならではの発想で、いかにも江戸生まれの食べ物という感じがします。

握り寿司誕生の裏にミツカンあり

また、握り寿司が誕生するのに当たって、大きな役割を果たしたのが、200年以上続く酢の大手老舗メーカー「ミツカン」です。

尾張国知多郡半田村(現・愛知県半田市)の造り酒屋に養子入りしていたミツカンの初代・中野又左衛門は、文化元年(1804年)に分家独立して、酒粕を利用した粕酢造りに挑みました。しかし本来、酒蔵家が酢を造るなどということは、江戸時代には考えられないことでした。なぜなら、酒を造っている横で酢を造るというのは非常に危険で、酢酸菌が入ると、お酒がすべて酢になってしまう可能性が高いからです。

しかしこのチャレンジは見事成功し、すっかり評判となった粕酢を、又左衛門は江戸で売ろうと考えたのです。

当時の調味料番付に、酢が登場していないことからもわかりますが、米酢は高級品で、気軽に使えるようなものではありませんでした。だからこそ又左衛門は、酒造りの副産物として、大量にできる酒粕で酢を造れば、安価な酢ができるのではないかと考えたのです。

江戸で「早寿司」が人気を呼んでいると聞きつけた又左衛門は、積極的に江戸への売り込みを開始。「粕酢の旨味が寿司飯に合う」、「しかも安い!」ということで、握り寿司が屋台で気軽に提供されるようになります。そして握り寿司の大ブームとともに、粕酢は江戸前寿司に欠かせないものとなっていきました。

現代では、寿司酢を作るときに砂糖を入れますが、これは江戸のお寿司がこのちょっと甘い粕酢でスタートしたことからの流れをくんでいるのです。

名にし負う「江戸三鮨」とは

「握り寿司」はそもそもは高級品で、出前で屋敷や宴の席に運ばれました。中でも江戸で名を馳せ、『江戸三鮨』と呼ばれた店がありました。

握り寿司を発明したと言われる二店舗、深川の堺屋松五郎の『松ヶ鮨』と、両国の華屋与兵衛の『与兵衛寿司』、そしてもうひとつは人形町で創業し、今も神田小川町に残る、松崎喜右衛門の『毛抜鮓(現:笹巻けぬきすし)』です。

『毛抜鮓』の創業が元禄15年(1702年)。初めて寿司に山葵を使った『松ヶ鮨』は文政13年(1830年)の誕生です。

『毛抜鮓』は笹で巻いてあるため、純粋な握り寿司とは異なった形をしていますが、圧倒的に歴史が古く、現在のご主人で13代目です。

また、『与兵衛寿司』、『松ヶ鮨』で出されるものは、押し寿司と握り寿司の合体版で、押し寿司の上に握り寿司が載っているという、なんとも不思議なスタイルなのですが、テイクアウトの際もこれがそのまま箱詰めされている絵が今も残っています。

価格は、『与兵衛寿司』はひと盛りが現在の相場で8,000円くらいで、『松ヶ鮨』はその数十倍もしたそうです。いずれも高級店で、当時の富裕層向けであったと思われます。

江戸の握り寿司はゲンコツ大

江戸時代には、当然冷蔵庫などありませんから、生のネタをそのまま切っての載せる『生寿司』とは違い、安全においしく食べられるよう、煮る、蒸す、茹でる、ヅケ、昆布〆、酢洗いなど、寿司ネタにはすべて下ごしらえがしてありました。

江戸の習慣や食文化についての記録書『守貞謾稿』には、当時の寿司についての詳細が残っており、具材は「鶏卵焼き・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮」とあります。今見ても、ずいぶん贅沢なラインナップですね

やがて屋台の寿司屋が普及し、庶民の気軽な食べ物として親しまれるようになります。

ネタは、こちらも江戸前の海で獲れる小鰭や車海老、白魚、穴子、蛤などが中心。のちに鮪を醤油に浸けた「ヅケ」なども加わり、握り寿司につきものの生姜の甘酢けなどもこの時代にすでについているので、ほぼ現代のスタイルが確立したといっていいでしょう。

今よりも、ご飯の量がだいたい6倍くらい、1個がゲンコツ大、おにぎり1個くらいの大きさで、1貫が6~8文で、現代の物価に換算すれば150~200円くらいの感覚です。

旨い寿司屋は暖簾が汚れていた

寿司が握られていると、それを手に取り、大きなどんぶりに入った醤油をつけて、口に放り込みますが、醤油は客全員の共用なので二度づけは禁止だったとか。お客は帰り際、寿司をつまんだ指を屋台の暖簾で拭いて帰るため、「旨い寿司が食べたければ、暖簾汚れている店を探せ」という通説もありました。

お寿司もまた、蕎麦と同じで、小腹養いのファストフード的な存在として愛されていたのです。

文/車浮代(くるま うきよ)
時代小説家/江戸料理・文化研究家。大阪出身。故・新藤兼人監督に師事し、シナリオを学ぶ。JR両国駅「ー両国ー江戸NOREN」のアドバイザー、浮世絵展の監修他、TV・ラジオ、講演等で活躍中。著書にベストセラーとなった『春画入門』(文春新書)と『蔦重の教え』(飛鳥新社)など多数。近著に『超釈 北斎春画かたり』(小学館)、『勝山太夫、ごろうぜよ』(白泉社まねき猫文庫)がある。国際浮世絵学会会員。日本ペンクラブ会員。http://kurumaukiyo.com

※本文は下記書籍より転載。転載にあたり、一部改変・割愛。

『江戸の食卓に学ぶ〜江戸庶民の“美味しすぎる”知恵』
著/車浮代
ワニブックス刊

出典:サライ